春病A                        




「はぁ・・・」
 弟のため息に兄はおや、と思う。前向きと天真爛漫が自慢の弟がため息をつくなどは、なかなかに事件だ。それも今は食事中。弟がこよなく愛する時間のはずだ。
「どうした、ルフィ。ため息つくと幸せが逃げるって言うぞ?」
 まぁ、お前の場合、多少逃げるくらいが丁度よさそうだけどな、などという兄のからかい半分の声に、弟、ルフィはきっと顔をあげた。
「エースのせいもあるんだからな」
「おれがなんだって?」
 ルフィの発言に、兄、エースは切れ長の目を丸くした。
「どうしてエースはおれの弟じゃなかったんだよ」
「・・・・おれにそれを言われてもなぁ・・・・弟が欲しいなんてのはもう卒業したんじゃねェのか?」
 エースの困ったような面白そうな声を聞きながら、ルフィはまたため息をついた。
別に今更弟を欲しがっているわけではない。成人式を過ぎてそんなことを言うほど幼くはない。ルフィの弟歴=末っ子歴はもう20年以上になる。幸か不幸か、親戚中でも末っ子扱いで、もう少しすれば親戚に新しい世代が誕生するのだろうが、今のところその気配はない。そして問題はこれからのことではなく、これまでのことなのだ。
 中学高校で部活動にいそしまなかったのがまずかったのかもしれない。長続きせずに1年でやめてしまったのだ。高校卒業と同時に入った会社は、さすがに1年でやめることはなかった。仕事が性にあったのだろう。しかし、次の年、会社が新規採用をとることがなかったせいで、ルフィは相変わらず末っ子だったのだ。先輩社員は大変にルフィをかわいがってくれて、それも会社が楽しい要因のひとつだったので、そのことに対して不満があろうはずはない。
 けれどいい加減「先輩」と呼ばれてみたかったのである。後輩の面倒を見て、可愛がる、というのをやってみたかったのだ。いつでもどこでも末っ子なのは、悪くはないが、少し飽きる。できれば、かわいい女の子の新入社員がやってきて、「先輩、これはどうしたらいいんですか?」などと、あれこれ頼りにされる、なんて経験を夢見たところで罰は当たるまい。長年の末っ子生活で、ちょっと夢見がちになってしまったのも致し方ないとも言える。
 そして今年度始め、念願の「後輩」がルフィにもできたのだった。

 今思い返せば、驚きと不満がそのまま顔に出ていたと思う。ルフィの夢見た「後輩」は女の子ではなかったし、自分より背も高かったし、おまけに年上だった。がっちりしていて、男前で、いかにも頼りがいがありそうで、ちっとも「後輩」という響きに相応しくない。そのあからさまながっかり顔に、先輩社員が思わずルフィの頭をはたいたほどだ。それでも「後輩」はルフィにペコリと頭を下げて、
「ロロノアです。よろしくお願いします」
 言われてルフィは俄然やる気を燃やした。年上だろうと、男前だろうと、仕事の上では「後輩」に違いない。後のはあまり関係ないが。「後輩」ロロノアは、大変礼儀正しくて、ルフィの言うことをよく聞いた。ルフィの方がキャリアが長いのに、大学を出ているという理由で、ルフィよりたくさんの給料をもらっていることを知ったルフィが拗ねたときは、昼食を奢ってくれた。
 傍から見れば、どう考えてもルフィの方が甘えているように見えているのだろうが、ロロノアはルフィをきちんと「先輩」扱いしてくれていた。大変出来た後輩と言える。一年の間にすっかり仲良くなった。それなりに先輩らしくなった、とも言ってもらえるようになった。それなのに。

「異動?」
 エースがまだ腑に落ちない顔でルフィに問うた。ルフィがこっくり頷いて、
「今回のは大きくて、8割代わるとかいう噂なんだ。おれがこんなに淋しいのも、後輩とか弟とかに免疫がなかったせいなんだって先輩が言ってた。エースが弟だったら、今ごろおれはこんなにセツナクなってないはずなんだ」
「・・・切ないのか・・・」
 エースの顔は大変複雑な表情になっていた。
「まあ、なんだ。あとの2割に入る可能性もあるんだから、今からため息吐いてても仕方ねェだろ。それにこう、案外離れてみると、今まで気づかなかったことに気づくってこともあるしなぁ。そうなったらなったで、おれが困りそうだが・・・」
「なんでエースが困るんだ?」
「なんでだろうなぁ・・・まぁ、きっと悪いことばかりじゃねェさ。どっちにしたって。」
「そうかなぁ」
「そうさ。楽しくいこうぜ。何事も」
 ルフィはにっこり笑うと、
「こういう時は、エースが兄ちゃんでよかったと思うな」
「・・・今度そのロロノア君とやらをウチに連れてきなさい」
「なんで?」
「ちょっと父親気分になった」
 ルフィは相変わらず首をかしげている。自分の思い過ごしに越したことはない、と苦笑しつつ、エースは食事に集中することにした。



    2007.3.20 初出。
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