QED

 

<前編>

 

 その新任の数学教師は、名前をロロノア・ゾロと言った。

 

  自分が教師に向いていないことは重々承知していた。大学院に進もうとしていた矢先、両親に事故であっけなく亡くなられる。そんな話はまぁ、それなりにある だろう。交通事故など3分毎に起きている。そして、両親の友人から働き口を世話される。それもよくある話だろう。それが、高校の教師である、という特異性 はあるにせよ。

生 活のため教師になった。生徒は勿論、同僚という名の教師も、人間そのものとあまり関わりたくないという点がもう致命的だ。けれど天職なんて言える職業に就 いた人間が世の中に一体どれだけいると言うのだろう。転職を考えない日はなかったが、どうにか毎日の授業をこなしていた。担任を持たされているわけではな いので、その点は幾分楽だ。そんな自分がなるだけ一人でいたい、と思うのは当然のことだし、学校という、閉鎖された空間の中で一人になれる場所、というの はそうそう見つかるものではない。そして職員室における立入禁止である屋上への鍵の管理が杜撰であったことも、統計上は珍しくもないはずだ。ゾロが授業の ない時間を屋上ですごすことになるのも流れ的には不自然でないと思われる。

  問題のひとつは屋上を欲する人間がゾロ以外にもいたということを失念していた点だ。そして、その理由が必ずしも一人になりたいというものではない、という 点にも思い至らなかった。そもそもピッキングなんてものが誰にでも使えるような世の中に問題があるような気もする。とにかく、授業中であるにもかかわら ず、鍵がかかっていたにもかかわらず、彼らは屋上に現れたのだ。手にタバコを持って。

  ゾロにすればどこで誰がタバコを吸おうと別段構わないのだが(本人の勝手だ)、現在のゾロの唯一の憩いの場を荒らされるのは歓迎できない。丁重に先住権を 主張してみたのだが、彼らには気に入らなかったようだ。もともとゾロはよくも悪くも目立つタイプなのだが、本人に自覚がないことも要因のひとつだろう。も ともとこいつ気に入らなかったんだ、とその時群れの一人が言ったのだが、ゾロの方にはその生徒に見覚えはまったくなかったし、顔も知らない人間から気に入 らない、とか言われても正直困る。

い きなり殴りかかられたのにはもっと困った。その動きが大変スローにみえたからだ。素人の集団対個人の喧嘩は、まず、集団のリーダーを見極め、その一人だけ を相手にする。その際には絶対に加減をせず、完膚なきまでに叩きのめす。殺される、という想像力を相手に起こさせる。血まみれにできれば尚良い。そうする ことで、周りの人間にも戦意を喪失させることが可能だ。そこまで考えることができた。けれど、ここは学校で、自分は今教師なのだ。さてどうするべきか。考 えていたせいで体が勝手に動いてしまった。相手の鳩尾にこれ以上なくきれいに自分の右手が入っていくのを見てゾロはかなり落ち込んだ。やっぱり自分に教師 は無理だ。

  事件、というには小さなものだった。丁度冬休みに入る直前の出来事だったり、仕掛けて来たのが明らかに相手側だったり、いろんな条件が重なって、ゾロに対 するお咎めは殆どなかったようなものだ。けれど、屋上への鍵の管理はとても厳重になった。暗に立入禁止を言い渡されたのだ。これはとても痛かった。せめて 奴らの時間が自分の時間と重ならなければこんなことにはなってないだろう、とため息をつく。3学期が始まった時の気の重さは、学生時代の比ではない。

内々 に処理されたようだが(確かにあまり表沙汰にできることではないだろう)、人の口に戸は立てられないとはよく言ったもので、新学期にはうっすらと「暴力沙 汰」の噂が流れていた。まったく尾ひれがついたものも、ある程度事実に近いものもいくつかあるようだ。ゾロの耳には具体的な内容まで入ってこなかったが、 ロクなものではないのが生徒の怯えの混じった目をみればなんとなく推し量れるというものだ。まぁ、授業はその分楽になったし、生徒からのアプローチの数も 減少したので、悪いことばかりではない。けれどやっぱり向いていないということは痛感した。退職願いを出すのはやめる一ヶ月前とか言うから2月かな、やは り3月にやめるのが筋だろうから、などと言うことを考えていた昼休み。それは起こった。

  所在なげに校舎横の植え込み前に座っていたゾロの頭に、パンが直撃したのである。空からパンが降ってきたのだ。勿論空からパンが降るはずはないので、上を 見上げた。パンといえどもそれなりの衝撃があったので(たいして痛くはなかったが)、だいたい、3階か4階辺りから落ちてきたものと思われる。すると4階 の窓から一人の生徒が顔を出していた。どんな反応を示すかと思ってなにも言わずに見上げていたら

「それやる!同じ一年のよしみで!」

そう笑顔で言われた。4階の教室からパンを投げることを咎めだてする間もなく、その顔はすぐに教室の中に入って行った。残されたゾロはなんとなくパンに目をやった。少し考えてかじった。袋が衝撃で既に破れていたせいもある。

「・・・甘ェ」

呟いて、それでも全部食べた。ジャムパンなんて、もう何年も食べたことがない。十年以上は有にある。きっかけなんてそんなもので十分だろう。

 

「・・・困った」

1年4組の教室の自分に与えられた席について、モンキー・D・ルフィは呟いた。実際、困っていたのである。

「どうしたルフィ?」

珍しく考え込んでいる風なルフィにクラスメイトが声をかける。なんとなく、かまいたくなる気を起こさせるのである。このルフィという人間は。

「・・・赤点とった・・・」

クラスメイト達はいつかやるだろうな、という顔をしていてルフィはちょっとおもしろくなかったのだけれど、実際、赤点をとったのは事実であったので何も言えなかった。

「追試か」

「うん」

問題はそこなのだ。いや、その先にあるもの、と言った方が正しいかもしれない。春休み目前の学年末テスト。よりによってそんな大事な時に赤点を取るというのはどういうことだろう。今までは、良い成績とは言わないまでも、なんとか赤点だけは免れてきたと言うのに。

  実の所、テストの成績が悪かったくらいで落ち込むようなルフィではない。学校の成績が悪いことくらい、人生に於いては些細な案件だと思っているからだ。幸 いにして両親も同じ考えらしく、「勉強しろ」と言われたことは一度もない。学校の成績より大事なことなんていくらでもある、と言ってくれている。けれど学 年末テストは特別だ。進級がかかっている。「赤点」をとれば「追試」があり、「追試」で通らなければ、春休み中、補習を受けることになる。それを拒否する と来年も一年生、というスリリングなシステムが高校には存在している。もちろん、補習さえ受ければ留年することなんてないのだが。そもそも出席日数につい てならルフィはまったくの優良児であった。学校は好きなのだ。総じて楽しい。

  テストの点数が悪いくらいで留年させるような学校やめちまえ、と父は言うのだが、高校というものはすべてそんなものだ。やめる気はさらさらない。だいたい やめろと言われてやめたところで「所詮お前はそこまでの男だよな」とか言うに決まっているのだ。あの父は。そんなことはさておいて。問題は留年ではない。 補習だ。春休みに補習は困る。学校は好きだが、他にも好きなものはたくさんある。休みは休みで予定はぎっしりあるのだ。補習など受けている場合ではない。

 そんなワケで来るべき休み捕獲のために、普段あまり使わない脳をフル回転させているのだが、どうにも空回りしているようだ。要は追試に通れば一日をフイにするだけでよいのだが、なんとなく、通る気がしない。

「そもそも、どの教科だよ」

クラスメイトが声をかけた。

「・・・数学」

「お前数学体育の次に得意だったんじゃなかったか?」

クラスメイトは驚いてそう言った。

  確かに2学期までの成績はどちらかといえば良い方だったと言っていい。5教科の中では数学の成績が一番よかった。これでも数学は一生懸命勉強していたの だ。それが今回、さすがのルフィでも落ち込むような成績だった理由は、間違いなくあの数学教師にあるのだ。たぶん、きっかけはあのパンに違いない。あれか らやたらと観察されている。・・・気がするのだ。くだんの数学教師に。彼のファンだという女生徒(実は多い)に聞いたところ、先生はあまり甘いものが好き ではないらしい。じゃぁ、ジャムパンは失敗だったわけだな、とも思ったが、それだけでもない気がする。やはり窓から食べ物を投げたのが悪かったのか、実は 当たった時痛かったとか、同級生扱いがまずかったのか、確かに考え始めるとどれも悪かったように思う。ただ、あの時、先生がやたらと疲れて見えたので、ル フィにしたら親切心だったつもりなのだが(自分が他人に食べ物を渡すなんて異例だ)、どうやら気を悪くしてしまったのだろうか。それでも特に文句を言うわ けでも勿論礼を言うわけでもなく、ただ気づくとこちらを見ていることが多いのだ。目が合いそうになると必ず視線は逸らされる。ただの自意識過剰なのかもし れない。ルフィはいまだかつてそのように言われたことはないのだが。鈍感だとはよく言われても。授業中だってちっとも当てられない。意識してルフィと話す のを避けているような気配すらする。どうにも気になって授業に集中できなかったのだ。ただでさえ出来が悪いのに。

「うーん」

ルフィは唸る。追試だってあんな目で見られてたら絶対落ち着いて受けられるはずがないのだ。

 

「先生―っ!さよーならっ」

「さようなら」

挨 拶しちゃったーっと言う声とともに女生徒が3人、目の前を通り過ぎていく。今日も無事に日が暮れた。教師対生徒の構図は一人対複数の構図だから、複数のう ちの数%がこのような錯覚に陥るということはよくあることだと聞く。選択肢が少ないが故に起こる錯覚。では逆の場合はどうだろう。錯覚にしろなんにしろ、 教師が生徒に抱いてよいような感覚ではない気がする。けれど職場に来る原動力にはなっているので、それはありがたい。

「先生」

声をかけられて一瞬対応が遅れた。振り返れば原動力がそこにいた。とりあえず周りを見てみる。「先生」と呼ばれる人間はさしあたってゾロ一人のようだ。

「なんだ?」

一呼吸、おいて応える。こんな風に一対一で対峙するのは初めてのことで、心なしか緊張しているのがわかって情けなく思った。生徒相手に緊張してどうする。そして、別に一対一なわけでもなく、少し周囲を見回せば、他にいくらでも人間はいる。

「先生って彼女いるのか?」

「・・・は?」

質問の意図がつかめない。確かにこんな質問は着任したての頃にはよく受けた。が、時期的にも物珍しさは過ぎた頃だし、そもそもゾロにその質問をしてきたのは100%女生徒だった。二の句が継げないゾロを目の前の男子生徒は不安そうに見上げる。

「えっと、先生。おれのこと知ってる・・・よな?」

知っている。知らなければもうとうに、退職願いを出しているところだ。

「モンキー・D・ルフィ」

ただ、知っている名前を口にした。

「あ、よかった。で、おれの今回の数学の点数は?」

「・・・今回は調子でも悪かったのか?」

18 点だ。前回の成績は72点。マイナス54点。あるいは4分の1に減少。良識ある教師なら、呼び出しのひとつもかけるのかもしれない。ゾロもいったいなにが あったのか聞きたい気もしていたが、なかなかきっかけをつかめずにいた。というよりは避けていたのかもしれない。あまりに強い自覚は自殺行為だと思ってい たので。できればあまり近寄りたくないのだが、声をかけられた以上逃げ出すわけにもいかない。

「うん、まぁ、悪いことは悪いんだけど」

ルフィは口をにごした。調子が悪いのは授業中だ、とは言い難かったせいだ。

「あ、それで先生、彼女いるのか?いないのか?」

そこでなぜその質問が出るのかゾロにはわからない。

「・・・いない」

先に進みそうにないので、とりあえず質問に答えてみた。

「いそうに見えるんだけどなぁ」

「・・・色恋沙汰の話なら、おれに相談してもムダだ。それで成績が下がったのだとしても。」

話がそれで終わりなら、とっととこの場から立ち去りたいと思う。

「じゃぁ、ご飯作って待っててくれる人とか、散歩行きたいの待ってる犬とかは?」

終わらなかった。

「・・・いない」

「えぇと、それはつまり、先生には早く帰らなくてはいけない理由や予定はない?」

要素が揃ってきた。気がする。なんとなく、見えてきた。

「・・・ないとどうなる?」

「今から、おれに数学教えてくれ。」

答え合わせ完了。ゾロはため息をついた。断れないだろう自分を予測したためだ。

 

  他人のクセが気になる時は、そのクセを改めさせる方法よりも、自分が気にならなくなる方法を探すことの方が簡単だとルフィは思う。前者にはとにかく根気が 必要だし、なによりそれを指摘して、なおしてもらわなければならない。どうしても相手の意思に頼らざるをえない。その点後者は自分の問題なので、自分の意 思だけでクリア可能だ。

  要は、この数学教師に観察されても気にならない自分になればいいわけだ。それには免疫をつけるのが一番よいと思う。それがルフィの出した結論だ。観察され ていると思うこと自体が気のせいであることがわかれば、それに越したことはない。それに、ちゃんと数学を勉強したいのもある。3学期に習った分をたった一 日でどうにかしようとも思ってないけれど。一応、一石二鳥を狙ったのである。

 先生はかなりしぶっていたようだが、なんとか承諾をもらうことができた。少し用事があるから教室で待っているように、と言われた。

「なんだルフィ。まだ帰らねェのか?」

「ちょっと忘れ物したんだ」

教室に戻る途中、クラスメイトに声をかけられる。

「今日帰ったらいいことでもあるのか?ずいぶん機嫌よさそうじゃねェか」

先週は赤点とってずいぶん落ち込んでいたのに。

「機嫌よさそうに見えるか?」

ルフィは首をかしげる。そんなつもりはないのだが。避けられていると思っていた相手とちゃんと話ができたせいか。不意に、彼女いないって言われたからかな、と思ってしまい、さらに首をかしげた。それが自分の機嫌とどう関係してくるというのだ?

「あー。悪ィ。先週に比べてちょっとそんな風に見えただけだ。そう考え込むな。」

「・・・うん」

そんなことを考えている場合ではない。今目の前にある問題は、いかに明日の追試を乗り切るか、なのだ。

「じゃぁまた来週」

「うん」

彼 は深くは詮索してこなかったのでルフィは少しほっとした。よくよく考えたら、学校の教師が一人の学生に特別に勉強を教える、というのはかなり問題があるの ではないか?まぁ、うまくいけば今日一日ですむのだし、なんとか乗り切ろう。いや、乗り切ってもらおう。ルフィは大変勝手に結論づけて、誰もいなくなった 教室で、ぼんやりとくだんの教師を待った。ルフィの教室の窓からは中庭が見下ろせる。誰かがトランペット(たぶん)を吹いていた。ブラスバンド部の部員だ ろうな、と思う。ルフィは部活に入っていない。放課後の学校ってこんななんだなーと妙な感慨にふける。そういえばここからあのパン投げたんだっけ。今思え ばよくあんなにうまく先生のトコに届いたものだ、と我ながら感心していたら、ガラリと扉が開いた。

「・・・すまん。待たせたな」

相変わらずの仏頂面だ。でもそこがいいと言う女の子がたくさんいることもルフィは知っている。

「すいません。忙しいところ」

ルフィはペコリと頭を下げた。

「・・・暇なの確認したんじゃなかったか?」

「・・・そうでした。」

ルフィは再度頭を下げた。

 

  ゾロは少しだけ迷って、結局教壇に立つことにした。不用意に近づくことはない。用事がある、なんて言い訳もいいところだ。帰ろうとしていたところを捕まえ たくせに疑わないルフィもどうかと思うが、その素直さは助かる。とりあえず、自分の立場を言い聞かせるのに多大な努力と時間を要した。自分は教師で、目の 前にいるのは生徒である。

「・・・今回の出題範囲だけでいいんだな」

「・・・はい」

どうにも間がもちそうにない。さっさと授業を始めることにする。授業だと思えばいいのだ。いつもと変わらない。緊張する必要などないはずだ。

「中学の時の相似な図形の証明ってのは覚えてるか?」

「相似?」

ルフィが首を傾げる。

「お前、数学好きなんだろ?」

「なんで?」

「2学期のテストを見た限り、お前が一番丁寧に問題解いてた。変な言い方だが楽しそうに解いてるようにみえた」

2 学期の72点は途中で時間がきたせいで(実際最後の数問は白紙だった)、時間さえあれば満点でもとれたかもしれない、とゾロは思う。テストというものには なぜかスピードが要求される。限られた時間内でどれだけの問題が解けるか、という要領のようなものが求められているのだろうか。処理能力の速さなのかもし れないが、学力とスピードはあまり関係がないような気もする。まぁ別に学校教育にあり方についてあれこれ言えるほどの熱心さはゾロにはないのだけれど、ル フィの答案を見たときには少し残念だと思ったのを覚えている。

「うーんと、数学好きになったの高校入ってからだったから、中学の時はあんまり勉強してねェんだ」

ルフィが申し訳なさそうに言った。あんまり、というより、ほとんど、と言った方がいい。どちらかというと嫌いだったかもしれない。数学というやつが。

「あー。じゃぁ、中学レベルからやった方がいいのか」

「できれば。一応教科書読んだけど、なんでcos2θ+sin2θ=1になるのかさっぱりわからなかった。」

ゾロは少し笑った。公式に疑問を持つ学生というのは今時珍しいのではないだろうか。公式が出れば単にそれを暗記して、問題に当てはめる。公式に疑問を持ったとしても、そんなことに時間を割いている暇はないのだ。今の学生は。

「うわ」

「どうした?」

「いや、ちょっとびっくりした。先生笑ってるの初めてみたから」

・・・また緊張が戻ってきた。ここでペースをくずされてはいかん。ゾロは気を引き締める。

「余計な話はいい。相似な図形ってのは対応する線分の長さの比は全て等しく、対応する角の大きさがそれぞれ等しいということだ。三角形の場合だと・・・」

 ルフィはこっそりゾロを観察する。やっぱり視線を逸らせているようで、目が合うことはない。こうしてルフィのわがままに付き合ってくれているということは、別に嫌われているわけではないと思うのだけれど。

「・・・聞いてるのか?」

ゾロの声が低くなって、ルフィは慌てた。聞いてなかった。

「・・・すみません」

「聞く気ねェなら帰るが」

「・・・やっぱり無理なのかな」

「なにが」

「おれ三学期、先生のこと気になって授業まともに聞けなかったから、こやって一対一で教えてもらえれば、おれの気が逸れてるのバレるから、ちゃんと緊張して授業聞けると思ったけどやっぱり集中できねェし。」

「・・・・」

「うーん。先生がおれのこと観察してるのかと思ったけど、おれが勝手に先生のこと気にしてるだけのような気がしてきたな。」

真面目に考え込まれてゾロの頭の中では激しく警鐘が鳴っていた。

落ち着け。

都合のよい答えを式をとばして導き出すような真似をしてはならない。

誤解だけは絶対するな。

「先生おれのこと別に嫌いじゃねェよな」

「生徒にそんな積極的感情は抱かない」

そうだよなぁ、とルフィは呟く。俯いて考え込んでいるルフィを見ながら、ゾロは次の防御策を講じていた。防御にまわる自分というのは気に入らないが仕方がない。不意にルフィが顔を上げてゾロは慌てて目を逸らす。

「じゃぁ、おれと目が合いそうになるといつも慌てて逸らすのはなんでだろう」

・・・見抜かれている。

「・・・というのを考えてると、数学がどっかいっちゃうわけだ。疑問が浮かんだらまず自分で考えろ、って先生言ってたから頑張ったんだけど、そのせいで数学わからなくなってすげェ困るんだ。これだけ答え教えてくれねェ?」

「そんなこと言ったか?」

はぐらかそうとしているのか時間を稼ごうとしているのか、ゾロにもよくわからない。

「そんなこと?」

「疑問が浮かんだらってやつだ」

「言ったよ。おれ、それで数学好きになったんだからちゃんと覚えてろよ。」

 

  ルフィは「役に立つ」という言葉があまり好きではない。言葉というよりは概念、だろうか。ルフィの物事における価値基準は、すべて「好き」か「嫌い」か だ。だから入学早々、「数学なんかやっていったいなんの役に立つんだよ」という文句をクラスメイトが口にしたときには少し顔を顰めた。当時、ルフィは数学 がどちらかと言えば嫌いだった。けれど役に立つとか立たないとかは、好き嫌いの判断には関係ないと思う。

だいたい、役に立たないものが要らないものなら、ルフィ自身もいらなくなってしまう気がする。こんな1高校生が何かの役に立っている、なんてことはルフィにはとても思えない。

「数 学をやってると、自分の中の疑問について安易に他人に預けるんじゃなく、まず自分で答えを見つけ出そうという思考が育つ。そして、その思考の道筋を立てる 訓練にもなる。まぁ、常に疑問に答えてくれる人間が傍に一生いる奴と、なんの疑問も持たずに生きていける奴には必要ない学問ではあるな」

至 極あっさりとゾロは回答を与えた。数学は思考の道筋を証明するための学問だから答えだけが当たっていても正解にはならない。ここ数年の疑問があっさり解け た気がした。答えだけが合っていた問題に、式がないから、と×にした中学の時の先生もこう言ってくれたらよかったのに、とルフィは思った。それから、数学 の授業はかなり真面目に受けた気がする。覚えることが少ないことも気に入った。ルフィは反復して暗記するだけの勉強は嫌いなのだ。

  ゾロの授業は淡々として、少しゆっくりなペースだけれど(だから予習は必ずしなくてはいけない)、ルフィにはわかりやすくて、わかってきたらどんどん楽し くなってきた。ゾロは数学に関しての、いわば恩人と言っていい。その恩人が、3学期に入ったある日えらく凹んでいたので、思わずパンを投げたのだ。自分な ら、とりあえず腹がふくれれば、少し気分も浮上するので。ところがそれ以来ゾロはルフィを避けているのか見ているのか、とにかくよくわからなくて、ルフィ は気になって仕方がない。

 

「・・・こういうわけだ。道筋立ってたか?」

立っている、と思う。ゾロは自分を情けなく思った。全然隠せていなかったということに。

「もっともな疑問だが、現実は数学と違って、答えを聞いてすっきりする問題ばかりじゃないぞ」

「聞いてみなきゃわかんねェだろ」

「おれにもよくわからん」

「へ?」

「お前と目が合いそうになると初めて自分がお前を見てることに気づく。だから慌てて目をそらす。事象としてわかるのはそれぐらいだ。」

ルフィは考え込む。

「えぇと、まず1点。つまり先生がおれのこと見てるのはおれの気のせいじゃない、ってことでいいな?」

「そうだな」

やはり数学好きなだけあって、曖昧なことはゾロも嫌いなのだ。嫌いなのだけれど曖昧にしておかなければならないこともある、ということは弁えているつもりなのだが。

「次に、おれのこと見るのって悪いことか?」

直球だ。ここで悪いことだと答えれば、理由を言及されることは想像に難くない。

「・・・悪いこと・・・だと思う」

結局ごまかしきれずに答えた。ひとつ嘘をつけば、その嘘をつき通すために、いくつも嘘をつかなければならなくなることは自明の理だ。

「・・・なんで?」

ルフィは少し眉をしかめてゾロを見上げる。予想通りの質問だったが、ゾロはその、少し傷ついたようなルフィの顔をまともに見てしまって、回答につまった。結局また目をそらせてしまう。

「教師が一人の生徒に積極的な感情を抱くのは悪いことだろう」

それが好意であれ、悪意であれ。それだけを早口に告げた。ルフィが今度は呆けたような顔でゾロを見上げている。見なくてもわかる。これですべてのデータを提示してしまった。

「・・・えぇと・・・それは・・ひょっとして・・・」

ル フィはブツブツと考え込んで、それから照れたように笑った。それはものすごく難しい数学の問題を解いた時より嬉しそうな、それでいて、どうしていいかわか らないような表情で、ゾロは頭の中で九九を唱えた。思考の暴走を止めるにはこれが一番良い。それでも視線はルフィの顔に注がれて、逸らすことができなく なった。

  そうしたらルフィの顔がどんどん赤くなってきて、7の段をしくじりそうになる。7×4=28だ。27でも24でもない。なんだか頭の中に靄がかかったよう な感じになり、頭の中の九九はストップしてしまった。代わりにガンガンと警鐘が鳴っている。そして気がつけば、ルフィの唇に触れていた。

 ルフィはまるでなにが起こったのかわからない、といった顔で離れていくゾロの顔を呆然と見上げていた。ただでさえ大きな目が、こぼれそうなほど開かれている。

「せんせ・・・」

ル フィがなにか言いかけたところをまた塞いだ。口が開いていたのをいいことにゾロは無遠慮にルフィの口内に舌を侵入させた。後退しようとするルフィの後頭部 をがっしりとつかんで、逃がさないようにする。ルフィはまだ自由な手でゾロの肩口を叩いた。力を入れて叩いているつもりなのだがびくともしない。

「んーっ・・・」

叫びは塞がれて声にならない。ざらりと舌を嘗められて、寒くもないのに背中がゾクゾクした。いったい自分になにが起きているんだろう。ルフィはクラクラする頭で考える。そもそもこれは誰だ。視界がぼやけてよくわからない。確か自分は数学の勉強を・・・

  ゾロはといえば、感覚を追うのに夢中になっていた。ジャムパンなんてものを日常的に買うだけあって、ルフィの舌や唾液は甘い、とか非科学的なことを考えて いたら、腹にすごい衝撃を感じた。さすがに体が離れ、座っていたルフィに蹴られたのだということに気づいたのは数秒後のことだった。

  ほんとうはそこで冷めるはずが、逆に唾液に濡れたルフィの唇だとか、赤く上気した顔だとか、呆然としてるのに潤んでいる目だとか、上手く整わない呼吸だと かそういったものにゾロの頭は支配されてしまった。血が燃える、というのはこういうのをいうんだろうな、とどこかで一瞬考えた。

  立ち上がってカバンに教科書をしまうルフィを、ゾロはどこか遠くの景色を見るように眺めながら、肩に触れ、振り向かせると思い切り抱き込んだ。ガタガタと 音をたてて、教室の床に倒れ込む。左手で後頭部を抱えてられていたので、ルフィが頭を打つことはなかったが、のしかかってくる重さに与えられる恐怖は今ま でに感じたことのないものだった。

 苦しくてバタバタと暴れる。机の脚を蹴ったようで音がしたけれど、重さは一向に軽くはならない。何度も口を塞がれて、首筋を吸われて、ブチッと音がしてカッターのボタンが弾け飛んだ。

  パタリと動かなくなった体に、ゾロはルフィの顔を見る。ルフィの顔は混乱と恐怖に歪んでいて、目じりに涙がたまっていた。見開かれた目から涙がボロボロと こぼれる。思わず体を起こすと、その隙をついたようにルフィはゾロを押しのけてカバンを手にすると、振り返ることなくすごい勢いで教室を出て行った。

「・・・廊下を走るな」

残されたゾロは床に座り込んだまま、ボソリと呟いた。


 2006.4.23UP

教師と生徒モノ、というのは、

生徒の方がリアクション起こしてナンボだと思いつつ、

そういうのはありがちなので、ここは教師→生徒というのをやろう、

と思ったら、案の定犯罪っぽく・・・。

7歳差ですね。

 












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