QED

 

<後編>

  今までルフィは誰かを怖いと思ったことなんてなかったのだ。大人相手でも。でもそれは、父をはじめとする周りの大人たちが、常に手加減してくれているせいなのだとわかった。
 ルフィは自分の家の部屋まで走って、それからボロボロと泣いた。苦しかったし、怖かったし、悔しかった。圧倒的な力だった。ろくに抵抗もできなかった。
「なんであんなことになったんかな・・・」
 ルフィは一生懸命、ことの起こりを思い出そうとする。原因があって、結果があるのだ。けれど思い出されるのは、ぶつけた足の痛みだとか、抱きこまれた時の苦しさとか、舌を這わされた時の粟立ちとか、感覚的なものばかりで、ルフィはベッドに突っ伏した。涙は止まったが、頭が沸騰しそうに熱い。そんな状況でもやっぱりお腹はすくもので、階下に下りれば、夕飯のよい匂いがして、ルフィの気は逸れた。凹んでいてもしかたがない。これからのことを前向きに考えるべきだ。とりあえず、負けっぱなしは趣味じゃない。
「あやまれ」
「断る」
 翌日、ゾロの姿を見たルフィの第一声に、ゾロはあっさりと答えた。ルフィは一瞬自分がなにを言われたのか理解できなかった。
「・・・謝れば許してやるって言ってんのに!」
 癇癪を起こしかけた。
「許してもらう気はない」
 ゾロは顔色ひとつ変えずにそう言った。目の前にいるこの男はいったい誰だ、とルフィは呆然とする。
「話はそれだけか?」
 ゾロがそのまま歩き去ろうとするので、ルフィはあわてて後を追う。
「先生のくせに!」
「あぁ、だからおれは向いてない。退職届なら今でも持ち歩いてるから安心しろ。お前はいつでも引導を渡せる立場だ」
 インドウとはなんだ?昔偉い人が身分を明かす時に使うアレだろうか・・・。とルフィが考えている間に、ゾロとの距離はどんどん開いていった。
 引導を渡す=最後の宣告をする。ルフィにはその権利がある。ゾロはそう考えていた。昨日のことはゾロにも少なからず衝撃を与えていた。
 あんな風に、わけがわからなくなるほど欲に支配されたことなんてなかったのだ。一晩たってもちっとも頭は冷えなかった。こうなるともう認めざるを得ない。あんな子供に。それも生徒に。さらに男に。自分は激しく欲情したのだ。今だって手に入れたくて仕方がないのだ。
 とりあえず成り行きを見ているつもりが、いきなり声をかけてくるとは思わなかった。その口から出た言葉も直球。ルフィの言う通り、一言謝るだけで、この子供はすぐに自分を許すだろう。そしてなかったことにしてしまうに違いない。容易に想像できる。それでは振り出しだ。
 世の中には、曖昧にしておかなければならないことがあるということを学ぶいい機会だろう。ゾロは少し笑った。あの調子なら今日の追試にはまず通るまい。自分の立場は棚上げにして、これはもう、完全に開き直った、と言うべきだろう。自分がこういう人間だったとは新しい発見だ。

 そして当然ながら、ルフィは追試に通らなかった。慣れない一石二鳥なんて狙ったせいで罰が当たったのかもしれない。二兎を追うものは一兎も得ず、とはよく言ったものだ。必然的に、春休み、補習を受けることになった。まぁ、数学一教科だけなので、時間にすればそんなに拘束されることはない。けれど、
「涼しい顔しやがって・・・」
 目の前の数学教師の顔を睨みつけた。なにが一番腹が立つって、ルフィはこの男に先生をやめてほしくないのだ。先生が先生でなくなるのはなんかイヤだ、と思ってしまう自分がよくわからない。目下この男はルフィの最大の敵であると同時にやっぱり恩人なのだ。
 むっつりと、機嫌の悪そうなルフィに、中学からの友人であるウソップが声をかけてきた。
「気持ちはわかるがあんまり不貞腐れてんじゃねェぞ?印象悪くなるぜ?」
 印象とか言われても、ちゃんと補習に出ているのだから文句を言われる筋合ではない。
「・・・補習の先生って交代とかすんのかな・・・」
「さぁ?交代はねェ方が教わる方はいいと思うけどな。先生には先生の都合があるから、代わることもあるんじゃねェか?」
 まぁ、せっかくの春休みに学校来させられてるんだから、先生も気の毒っちゃ気の毒だよなぁ、と気のいい友人は続けた。この学校に数学教師は何人もいて、尚且つ、補習を受ける人間は、学年中集めてみたって、1クラスには満たないのだが、やっぱりこういう役割は新米にふられるものなのだろうか。
 ロロノア先生に積極的な感情を持たれている、という解答はルフィにとってものすごく嬉しいことだったのだが、だからといって、その後の展開はよくない。なにがよくないのかはわからない。わからないことは怖い。ルフィの眉間に深い皺が刻まれる。
「お前でもそういう顔すんのな」
 ウソップが笑った。
「うつったんじゃねェか?っとヤべぇ」
 そう言ってこっそり指差す先にはゾロがいる。大変、不機嫌そうな顔でこちらを睨みつけている。眉間にはくっきりと深い皺。あわてて友人が前を向いた。ルフィも負けじと睨み返す。それでも視線は逸らされなくて、結局ルフィが負けた。悔しい。
 その日の補習の内容は、三角比。余談としてどこかの学者が太陽によってできる影の長さから、ピラミッドの高さを計算した、という話をしてくれた。同じ時刻に量れば、実物の高さと陰の長さの比は一定である、という事実を利用したのだそうだ。少しおもしろかった。授業が終わったあと、ウソップが、
「案外、おもしろかったな。」
 と呟いた。彼の数学担任はゾロではない。ルフィはなんだかちょっと嬉しくなって、やっぱり先生は先生でないとダメだ。と再確認してみた。
「予習、キツイんだけどな」
「あー。そうかもな。いろんな噂聞くし、顔怖いけど、授業は思ってたよりまともっつぅか、わかりやすかったな・・・」
ウソップが感心してくれるのでやっぱりルフィは嬉しくなった。
「ウソップも2年になったら一緒に受けられるといいな」
「なんでお前がそんなに嬉しそうなのかわかんねぇけど、でも怖くねェ?」
「・・・怖い・・・かもなぁ・・・」
 実際ルフィもちょっと怖い。今まではそんなこと思ったりしなかったけれど、あの目とか。今にもとって食われそうな気がする。また少し顔が熱くなった。
「お前は数学ひとつだけなんだろ?帰るのか?」
 ウソップの補習は数学ひとつではない。これから古典と歴史の補習がある。彼の名誉のために言っておくと、ウソップは別段これらの教科が不得意だったわけではなく、単に、テストを受けられなかっただけなのだ。
 テスト最終日の前日、不幸にも食中毒に遭い、そのまま入院。追試も受けられなかった有様なのだ。普通、そういう場合は特例をもって別の日にテストを受けさせてくれてもよさそうなものだが、そのような特例は認められなかったようだ。ルフィは気の毒に思いながらも、ウソップと一緒に補習でよかったなぁ、とこっそり思っていた。あの男でいっぱいになりそうな気を、上手く逸らしてくれるのだ。ありがたいことこの上ない。勿論ウソップには絶対内緒だ。
「んー。いいよ。待っててやる。終わったら遊びに行こう。折角の春休み、補習だけじゃつまんねェもんな」
 多少の恩返しをこめてルフィは言った。2時間くらいならなんとかつぶせる。ルフィにとってもこの愉快な友人とどこかへ遊びに行きたい気は十分あった。
「おー。心の友!」
ウソップががっしりとルフィの手をとった。その大げさな態度にルフィは笑った。

 休みの日の学校はこんな風なんだなー、とルフィは廊下を歩きながら思う。こんな風に人の少ない学校は、ちょっと知らない場所みたいでなんだか楽しくなった。ここはひとつ、冒険をしてみよう。やはり、入ってはいけない場所、というのには心惹かれる。閉鎖されているそうだけれど、行くだけ行ってみよう。ルフィは思いついて階段を上った。
 何故閉鎖してしまうのかルフィにはわからない。それこそ何のためにあるのかよくわからない。閉鎖されているからこそ行きたくなるものではないのだろうか。
 ドアに手をかけると、あっさり開いたことにルフィは驚いた。そして少しだけ予感がした。そのまま回れ右をして違う場所へ行くのが得策だ。それはよくわかるのだけれど。どういうわけか足が動いた。逃げるみたいで気に食わなかったのかもしれないし、ひょっとしたらやってはいけないことをしてみたかったのかもしれない。冒険だ。
「・・・懲りねェな、先生」
 思ったとおりの人物がそこにいて、ルフィは少しだけ嬉しかった。これは予想が当たったことに対するヨロコビである。と、心の中で言い訳をした。
「いつクビになってもよいもので」
 ゾロは軽く答える。それから、
「補習すんだのに、まだ学校にいるなんて奇特だな」
「ウソップ待ってんだよ。終わったら遊びにいくんだ」
「遊ぶ時はあまりハメを外さないように。知らない人には奢ってくれると言われてもついていかないように」
「なんだそれ」
 棒読みの台詞にルフィは笑った。なんだか不思議な感じがする。随分普通に話しているし、そういえば、こんな風に話すのは初めてかもしれない。
「笑えるんだな」
「そりゃ・・・」
 言いかけて止まった。またあの目だ。空は青くて風は少し強いけれど、寒さは感じない。明るくて穏やかな陽気の学校の屋上にはまるで似つかわしくない、怖い目。ルフィの体に緊張が戻る。
「・・・おれが怖いか?」
「・・・怖いよ」
 素直に答えるルフィにゾロは少し意外そうな顔をした。
「否定するかと思ったけどな。お前負けず嫌いだから」
「事実は認めねェと、戦うことも出来ねェからな」
「それでわざわざ近寄ってくんのか」
ゾロは笑った。怖いものを怖いと認めないと克服はできない。
「まず敵を知るトコから始めねェと」
「敵かよ」
 それでもその他大勢と一緒にされるよりは随分マシだ、とゾロは思う。
「・・・先生はおれをどうしたいんだよ」
 相変わらず直球な質問にゾロは考える。
「今時、敵に情報をただでくれてやる奴はいねェよなぁ」
 あ、悪い顔だ。密かに尊敬していた先生は、実はちょっと性格が悪い・・・のかもしれない。ルフィはほんの少し、肉食獣の巣穴に入ったような気になった。
「報酬によっては答え合わせぐらいはしてやるぞ」
 ゾロの顔が近づいて来て、ルフィは思わず一歩下がった。背中を見せて逃げるのは、妙な矜持が邪魔をして、ジリジリと後退していくと、背中に金網が当たった。
「・・・この位置だと、誰かに見られるかも知れねェけどな」
 カシャリ、と両脇の金網に手をつかれ、逃げ場を奪われる。本気で逃げようと思えば逃げる方法はあったのかもしれないけれど、ルフィは考えるのをやめてしまった。考えるのをやめた人間は、騙されても奪われても文句は言えないのだと言ったのは、確か目の前の男だ。どんどん近づいてくる顔にルフィはなぜか目を閉じた。なんだかそうしたかったのだ。ゆっくりと唇を吸われる感覚は、思っていたより悪くはなかった。確かこの間はこんなに優しい感じではなかったはずだ。
 近づいて来た時と同じゆっくりとした速度でゾロの顔が離れていく。ルフィはゆっくりと息を吸って、吐いた。息を止めていたせいか、呼吸がなんだかおかしかった。
「・・・ほんとにお前はよくわからんな」
 ゾロの声にルフィはやっと目を開ける。
「答え合わせならしてやる」
 目を開けてみたけれど、ゾロのスーツの肩口しかみえなかった。こんな風に抱き込まれるのも、ゆるく優しい感じなら悪くはない。
「・・・先生は・・・おれのこと・・スキ?」
「あぁ。手っ取り早く結論を言えば。」
「他の奴とは違う感じで?」
「違う感じでもそんな風に思う奴はいない」
「・・・・・」
 ルフィは困った。赤点を取った時よりもずっと困った。こんなに困ったのは生まれて初めてだ。相手は教師だ。普通教師が生徒にこんなことを言うもんだろうか。けれど授業は面白い。勉強することが楽しい、などとルフィに思わせるほどの敏腕ぶりだ。でもゾロはいつでも教師をやめる気でいる。それは大変勿体ない。
「・・・おれは・・・先生は先生でいるのがいいと思う」
 ルフィはそれだけをやっと口にした。
「先生が先生じゃねェのは、なんかヤだ」
そして、ゾロの腕から抜け出すと、そのまま屋上を出て行った。

「・・・つまり振られたわけか」
 屋上で一人残されたゾロは、追うこともせずに呟いてみた。口に出すことによって、考えがまとまることもある。なるほど、これは結構キツい。経験してみなければわからないということは確かにあるものだ。自慢じゃないが、経験したことがなかった。他人に興味(というよりは好意)を抱くことも、それを拒絶されることも。
「なるほど・・・敵だな」
これほどのダメージを与えるならば、それは敵に違いない。ルフィはうまいことを言う。しかし、人間を成長させるのも、やはり敵だ。
「・・・さて。どうするか」
あきらめる気など毛頭ない。今さっきまでこの腕の中にあった体温だ。嫌われているわけではない。そもそも嫌いな人間を前に、あんな風に素直に目を閉じるはずがないのだ。もちろんルフィのことだからよくわからないのだが。よくわからないことをそのままに放置しておくのは、気分が悪い。あのような返答で、仮にも数学を職業としている人間が納得すると思うのが間違いだ。式のない答など認めない。
 ゾロは九九を唱え、その正確さと速度に満足すると、屋上を後にした。

 補習期間も無事終わり、ルフィもまた無事に進級した。あれから、ゾロとルフィの接触はない。ただ補習授業で顔を合わすだけだった。
 そして、新学期。よもや、採用二年目の教師が担任を持つ事態になろうとは思わなかった。確かにいきなり3年は荷が重いだろうし(そんなタマじゃないことはおいといて)、1年生に対しては、威嚇がすぎる気もする。けどよりによって、自分のクラスでなくてもよいのではないかとルフィは思った。
「・・・そんなお約束な・・」
「なにが約束?」
 独り言に友人が反応した。
「いや、今年一緒のクラスでよかったなー!」
「おぅ!」
 ウソップとハイタッチを交わす。新しいクラスはまだいろいろと落ち着かない感じだ。ざわざわと、知っている顔を見つけてはかたまりができていく。女子がキャーキャーと色めき立っているのは、きっと新しい担任のせいに違いない。
「確かに男前だけどなー」
 ウソップの言葉に反応が遅れた。
「なにが?」
「先生だよ。確かに男前だけど、あれは悪そうだ」
「・・・おれもそう思う」
「でもあぁいう悪そうなのがいい、って女は多いからなー。確かに慣れてそうだしな。」
 確かにそんな感じだ、とルフィは眉間にしわを寄せた。
「絶対、学生の頃悪かったクチだ。あれは」
 今も悪いけど。と口には出さずにルフィは断定した。ウソップは少し驚いた顔でルフィを見る。
「・・・なんだよ」
「いや、お前が人のことそういう風に言うの珍しい、と思って」
「そうか?」
「そうだよ。お前の価値基準って、いっつも好きか嫌いかどっちかじゃねェか。」
 確かにその通りだ。いつもはあくまで自分の感情を口にするだけで、こんな風に人を評価するなんて、ルフィにしたら珍しい。というより少なくともウソップが聞くのは初めてだ。
「・・・敵だからな」
「は?」
 真相を聞き終えないうちにチャイムが鳴った。新しい担任教師は、チャイムとともに現れて、マニュアル通りのHRをこなした。

 拍子抜けするくらい、何事も起こらない日々が続いた。別になにか起こって欲しいわけでもないのだが、どうにも釈然としない。

「・・・なんかお前最近顔険しいなー」
 3時間目、数学の授業の後、1年の時からのクラスメイトに声をかけられる。今学期、隣の席になったシュライヤは、なにかとルフィを気遣ってくれるよい友人の一人だ。
「うーん、そっかなー・・・」
 ルフィにもよくわかっていないのだけれど、どうにも気分が悪い。やたらとロロノア先生が目に入るせいだ、ということはわかる。今も、授業が終了したと言うのに、女生徒たちに囲まれている。例の暴力沙汰の噂もそろそろ薄れてきて、どうやらまたモテ期に入ったようだ。そしてなにが面白くないと言えば、なんだか少し、愛想がよくなっているのだ。それがまた拍車をかけて女の子を呼び寄せている。最近めっきり男前度が上がったという話だ。クラスの女の子たちが話していた。こういう状態であれば、いつあの中の女の子に手を出して(とにかく先生は手が早いし)、先生をやめなくてはならなくなるかわかったものではない。
 そしてもうひとつ。新学期になってから、ちっとも話をしていない。ルフィは今までだって、決してゾロから近づいてきたことはないのだということに気がついた。いつだって、近づいていくのはルフィの方からだった。ルフィが行動を起こさなければ、ゾロも行動を起こすことはない。それもなんだか、おもしろくない、というか、変な気持ちになる。
「なんかボーッとしてるな。熱でもあるのか?」
 シュライヤの心配そうな声をどこか遠くで聞いていたら、いきなり腕をつかまれて、席を立たされた。
「あぁ、少し熱がありそうだな。とりあえずおれが保健室に連れていくから、ロビン先生にはそう言っておいてくれ。」
 次の授業は世界史だ。密かにルフィの好きな教科であるだけに、抵抗を試みようとしてみたが、確かにつかまれた腕が熱い気がして、声が出なかった。
「先生、授業は?」
 ルフィの代わりにシュライヤが、質問を発した。
「おれは次は空き時間だ。友達が心配なのはわかるが、コイツの分も授業受けてやった方が能率はいいと思うぞ」
 確かに、ルフィは世界史の授業を楽しみにしていた節があるので、ノートのひとつもとってやった方が、喜ぶだろうし、能率もいい。確かにこの担任教師の言うことは合理的で正しいのだが、釈然としないのは何故だろう。
「・・・じゃぁよろしくお願いします」
シュライヤがしぶしぶ頷けば、ルフィが礼を言った。
ずかずかと手を引かれて廊下を早足で歩く。
「先生、おれ一人で行けるぞ?」
 引きずられそうになりながらルフィは訴えた。ゾロは歩くのが早い。が、当のゾロは知らない顔でルフィを保健室まで連れて行った。促されるままに、ベッドに座らされて、体温計を渡される。ルフィは体温計を脇にはさんで、ゾロが保健医のアルビダ先生となにか話しているのをぼんやり眺めていた。アルビダ先生は、学校一の美女と評判で、そのアルビダ先生の隣に立っても位敗けしないロロノア先生はやっぱり男前なのだなぁ、とルフィはとりとめなく考えた。やはり、大人の男の隣には大人の女が似合うと思う。
 ピッと音がして、ゾロとアルビダが振り向いた。ゾロが寄ってくるので、ルフィは体温計を渡した。
「37.5か。少し寝てろ。で、下がらないようなら昼から帰れ」
 なんだか久しぶりに話している気がする。それだけのことが嬉しくて、ルフィはゾロを見上げていた。こんな近くで顔を見るのも久しぶりだ。
「お前、それは試してんのか?挑発してんのか?」
「は?」
 熱のせいか顔が少し赤くて、目は潤んでいるし、かつ、上目づかいになってるし、熱を計った時、第二まで外されたボタンはそのままで、鎖骨が浮き出て見えるし。
「アルビダいるからな、声、出すなよ」
 小声で囁いて、綺麗に浮いた鎖骨の上に吸いついたとしても、責められる謂れはない。あくまでそれはゾロの言い分であって、ルフィの方の言い分はまた別のものだったが。
「・・・・っ!!!」
 ちくり、とした痛みを感じて、ルフィは叫び出したい気持ちをなんとか堪える。こんなところを誰かに見られるのは大変にまずい気がする。けれど、するするとシャツのボタンが外されていくのはもっとまずい気がする。ルフィはじたばたと抵抗を試みながらも、必死になって考える。これではルフィがなんのために我慢しているのかわからない。
「・・・なにを我慢してんだろ・・・?」
 自分の思い至った考えを思わず口にしたら、ゾロの動きがピタリと止まった。そのまま石のように考え込んでしまったルフィにゾロはこの先を続けていいのかどうか悩む。聞けばダメだと言われるに違いないのだが。ゾロの方にも考えるゆとりが生まれた。どうにも、ルフィを前にすると、考える能力が8割近く落ちる。この間泣かせたばかりだというのに、同じことを繰り返す気だったらしい。手の平に残る少し高めの体温に未練がないと言えば嘘になるが、ゾロもなんとか立て直す。今更だが、嫌われたいわけではないのだ。
 ルフィがあまりにも真剣に考えている風なので、少し、見守ってみることにした。カーテンを開けてそっと外に出ると、保健医のかけていた椅子に座る。ルフィにはあぁ言ったが、アルビダには席を外してもらっているのだ。もらっている、というのには多少の語弊があるが。
 10分ほど経過したので、ゾロは再びカーテンを開けた。
「結論は出たか?」
「・・・あ・・・うん。わかった。」
 思いのほかしっかりとルフィが受け答えするので、ゾロは意表をつかれたような、嬉しいような、あるいは、死刑台を前にしたような、妙な心持ちになった。
「言いたいことがあるなら聞くが」
「・・・ここで?」
「アルビダならいねェから。」
「なんで?」
「ちょっと旧悪を知っているので、融通を利かせてもらった」
「知り合い?」
「高校の先輩・・・っても、おれが入った頃にはとうに卒業してたが」
10以上年は離れているはずだ。
「・・・あの先生いくつなんだ?」
「さぁ」
話が逸れた。それはさておいて。
「えぇとだな。まずおれは先生に先生でいてほしい」
「それはもう聞いた」
「だから先生が、誰か先生のこと好きな女生徒に手を出して、先生やめなきゃならなくなったらとてもイヤだ」
「・・・随分、信用がねェ」
「だって先生、手ェ早いし」
「なんとも思ってない女に手ェ出すなら、生徒は相手にしねェよ」
面倒だし。
「・・・生徒じゃなかったら手ェ出したりするのか?」
たとえば同僚とか。
「そりゃ、お前次第だろ」
 ルフィの眉間に深い皺が刻まれた。こんな顔をさせてばかりだ、とゾロは少し反省したりもするのだが。
「お前はおれにどうしてほしいんだ?女生徒に手ェ出さなきゃいいわけか?」
「全部言っていいか?」
「聞くだけは聞く」
 4時間目が終わるまでにはまだ多少の時間はある。全部とはいったいどれだけあるのだろうか。
「まず先生は先生でなきゃイヤだ。これは絶対。おれが先生に近づくの我慢してるのに、他の奴らが先生に平気で近づいてくの見てるのもヤだし、先生の一番がおれでないのも先生がおれのこと見てないのもヤだ。でも、こないだみたいなコトとか今みたいなコトされるのは困る。けど他の奴にあぁいうコトされるのはもっとヤだ。」
「・・・・・・」
「だからおれが卒業するまで仕事に生きろ」
 ルフィはとりあえず要求を全部述べてみた。見上げるゾロの顔は大変に渋い。初めて見るくらい苦々しい、といった顔だった。全部言ってもいい、と言われたから言っただけなのだが。
「・・・今のは必要条件だな」
 たとえば、p(x):”xは6の倍数である”q(x):”xは2の倍数である”というふたつの条件p(x)、q(x)の間には、p(x)が正しいなら、必ずq(x)も正しい、という関係が成り立っている。その場合、6の倍数であることは、2の倍数であるために十分であるが、2の倍数であることは、6の倍数であるために必要である。
 この場合、ルフィの要求q(x)はゾロのことを好きであるという条件p(x)に必要ではあるが、十分ではない。必要十分条件でないと困るのだ。
「ひとつ、提案がある」
 黙ってしまったルフィに対してゾロは続けた。
「誰にも秘密でつきあってみる、というのはどうだ?バレなきゃ教師やめなくていいし、おれもお前がいるうちはやめる気ねェし、お前がおれのもんになるなら、他の奴に興味は起きねェし、寄って来たって断るし、お前も我慢しなくてすむし、お前の要求はほぼクリアできる」
「ほぼ」
「そりゃ隙みせたらヤられるぐらいのリスクは背負え」
「・・・りすく」
「それともここで逃げるか?」
 よくわからないがルフィは逃げるという行為はあまり好きではない。逃げたら負けな気がする。やはり何事も勝たなくてはいけない。どうなったら勝ちなのか、イマイチわからないのがネックだが。
「・・・その勝負受けた」
 どうして勝負になったのかゾロにはわからなかったけれど、ひとまず細かいことは気にしないことにした。

∴その数学教師の名前はロロノア・ゾロといって、数学教師のくせに力が強くてケンカ慣れしていて、手が早くって、モラルが低くて、ルフィの最大の敵であり、そして好きかもしれない人である。qed


 2006.4.29UP

後編です。

ルフィたぶん知恵熱です。

証明問題は大好きでした。

どうにも話を考えると長くなる傾向があるので、

今回はばっさりと切ってみました。

終わらせるのって難しいなぁ。

もしよろしければお話聞かせてください。

命題と条件がわかりにくい、とか。










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